The following takes place between 1.30p.m.and 5p.m.

浜松町のメルパルクホールでの知的財産権制度入門の講習会に参加。
入ったとたん名刺が必要だと言われ戸惑ったが、ない人は紙に名前を書けと言われた。しかも、その紙の欄には名前と会社名しかなかった。社会人向けだと悟る。
開始ぎりぎりに行ったのでかなり混んでいた。
周りを見ると、サラリーマン、OLが多かったが、若い人もちらほら見かけた。
入門だけあってわかりやすかった。
まず、知財の種類について。
次に、産業財産権について。知的財産権産業財産権を混同していたが違うことに気付いた。
そして、特許制度、著作権…と続く。
最初の休憩で、2階を見に行ったら空いていたので二階に移動。
後半のほうになると実務者向けの内容になった。
5時に終わり、東京タワーに一度も行ったことがなかったので行ってみる。
入場料が1000円近くかかると書いてあり、断念。
代わりに慶応大学を地図で探したが見つからず、断念。
雨も降っていたので帰った。
■[西暦535年の大噴火]
内容:6世紀半ば、世界各地で不気味な現象が記録される。東ローマでは一年半「太陽が輝きを失った」。異常気象とともにペストが蔓延。コンスタンティノープルの人口は半減。街に死体があふれ時のユスティニアヌス帝はその処理に苦慮した。同様の記録は『日本書紀』にも。中国では何と8月に雪が降り、飢饉による食人も日常化。アヴァール人の移動、テオティワカン文明も崩壊…。異常気象の原因は535年のクラカトア火山(現インドネシア)の大噴火らしい。吹き上げられた火山灰が、その後数年間地球を覆い太陽光線をさえぎったため。実はそれまで陸続きだったジャワ島とスマトラ島もこの爆発で分離し、スンダ海峡が出現したのもこの時とか。[以上、デヴィッド=キーズ『西暦535年の大噴火』(文藝春秋)より]また、この火山は1883年にも大噴火を起こし、地元で3万5000人を飲み込んだ津波は大西洋に達したという。

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■[革命前夜1]
18世紀の啓蒙思想ロココの時代。パリの市民で生まれた赤ん坊を自分で育てる人はごく稀だった。乳母に任せる。田舎に里子に出す。それが当たり前。そのための斡旋所が市内にいくつも存在した。最初は貴族など上流家庭の風習だったのが、18世紀には一般市民にも拡大したもの。田舎に預ける際は、まだ柔らかい赤ん坊の体を布地でぐるぐる巻きのミイラ状にして馬車の荷台に放り込み、舗装もない道路を遠路運ぶうち振動で首や足の骨が折れ曲がったり…、というのも日常茶飯事。まさに赤ん坊受難の時代。ウィーン会議に登場する外交官タレーランもそんな被害者の一人で、彼も里子に出された乳児期のけがで生涯片足が不自由だった。では、パリの市民はなぜ子供を自分で育てなかったのか?(つづく)

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■[革命前夜2]
その答えの多くは、遊びたいから。舞踏会、サロン、劇場、音楽会…。セレブな社交界にあこがれる中流市民に拡大したこの習慣、今なら子供を託児所に預けてカルチャーセンターや映画に行く感覚らしい。またこの時代、恋愛は結婚後に家庭の外でするものというのが常識。結婚相手は家の格など考えて親が決める。当然、恋愛対象は結婚相手とは別、しかもナント同時に複数いて当たり前。ヴォルテールやルソーが生きたのはそんな時代だった。実に“革命前夜を生きなかった者に人生の甘美さは理解できないだろう”(タレーラン)とは含蓄深い(当然“出生の秘密”も多い。画家ドラクロワは、そのタレーランの隠し子との説)。夫を支え子供を育て家庭を守る「貞淑な良妻賢母」が女性の美徳になったのは革命後の19世紀になってからのこと。家庭の中へ押し込められたともいえますが(98年・センター試験Aに出題あり)。
Kによる。