勉強
昨日は商標法3時間です。
病状は日に日に良くなっています。
昨日はモチベーションを上げるため、英雄達が集う史記を読んでいました。
今日は雨が降り続いておりますので、史記から小話を一つ。
諸子百家の一つですね。
今日は同じ諸子百家で墨子と同時代の人、兵家の呉子を取り上げたいと思います。
受験生を励ます言葉として、
「彼を知り己を知れば百戦危うからず」
という言葉がありますが、これは孫子です。
呉起は衛という小さな国の出身で比較的裕福な家でした。
彼は立身出世を志し、諸国を回りましたが、誰も採用してくれませんでした。
そのため、彼は仕方なく家に帰ってきました。
母親は特に怒ったりもしませんでしたが、家は極端に貧しくなり、呉起は世間の笑いものになりました。
呉起が歩くとこ彼は嘲笑されました。
呉起は高いプライドを持っていました。
とうとう呉起は我慢できないほどになり、町の人と喧嘩をして殺してしまいました。
彼は町を逃げ出し、孔子の弟子の子の曽申に儒学を学びにいきました。
彼はここで熱心に学びましたが、ある日母親が死んだという知らせが届きました。
彼は町に帰ることが出来ない身でした。
この事情を知らない曽申は彼を親不孝だといって破門しました。
彼は孔子で有名な魯の国に行き、兵法を学びました。
兵法の先生にも気に入られ、魯の役人に推薦してもらえました。
役人になった呉起は隣国である斉の国の女性と結婚しました。
もともと有能な呉起のこと、見る見る頭角を現していきました。
だがそのため、周りからは妬まれました。
そして斉国が攻め入ってくることがありました。
魯王は兵法を学んだ呉起に出陣させようとしましたが、周囲の人は彼の妻は斉人だ、斉と繋がっているに違いないと反対しました。
それを知った呉起はすぐさま妻と離婚し、出陣を請い、王も将軍に任命しました。
呉起は天才でした。
70余城を持つ大国斉の軍を蹴散らしました。
しかしその後、衛での殺人、妻の葬儀の不参加での破門、妻との離婚ということが悪い噂として広まりました。
噂は噂を呼び、一人歩きしていきました。
そのため、魯王も他の部下達の意見から呉起を解雇しました。
魏では人材を募集していました。
悪い噂は聞きましたが、戦では司馬穰苴(しばじょうしょ)をも凌駕するという進言を受け、魏王である文候は将軍として迎えました。
ここで呉起は約200年後、はるか西方でハンニバルがやったのと同じことをやりました。
それは秦を攻める時のこと、
普通将軍や、上級の兵士は行軍の時は騎馬に乗るものです。
しかし、呉起は一般兵と同じ格好をし、食べ物も持参しました。
寝るときも地面に寝て、最下級の兵と同じ事をしました。
兵士は、上司どころか将軍がこれをやったものだからいたく感動しました。
そのため魏軍のモラールは相当に高まりました。
西方の雄である秦の一部を手に入れ、北方の中山、同じ晋から分派した韓、趙まで倒しました。
呉起の魏軍でのエピソードで有名なのが「吮疽の仁(せんそのじん)」です。
呉起将軍と一緒に歩いて行軍していた兵士の1人が足に傷を負い、腫れて膿んでいました。
これを見た呉起は傷口を切り、自ら傷口に口をつけ、膿みを吸い取っては吐き出し、吸い取っては吐き出すということをしました。
これをされた兵士はおろか、周りの兵士は涙を流しながら見ていました。
この話はすぐさま兵士の母親の元に届きました。
母親は泣き出しました。
感動したのではありません。
悲しくてないていたのです。
母親の夫も呉起から膿みを同じように吸い出してもらったいて、将軍に命を投げ出す覚悟を持つようになり、
それがために戦場では勇んで死んでいった、ということでした。
息子も父と同じ運命をたどることになるのでは、と思っての涙なのでした。
しばらくして、名君と言われた文候は亡くなりました。
呉起は優れた行政官としての才能を発揮していて、次期宰相と囁かれるほどでした。
しかし、新王武候の宰相は田文という人物になりました。
呉起は田文に食いつきました。
呉起「あなたと私とどちらが能力が優れているか?」
田文「あなたです」
呉起「ではなぜあなたが私より上の立場にいるのか?」
田文「逆に質問します。わが主君は即位して日が浅く、重臣達の心も把握していない。
全てにおいてあなたには及びません。
国をまとめるには私とあなたとどちらがいいでしょうか?」
呉起「(なるほど、天に日は二つあらずというわけか)やはり、あなたが宰相として適しています」
その後田文は病死、新宰相は魏の公女(王の娘)を妻に持つ公叔(こうしゅく)が就任しました。
公叔は呉起を恐れていました。
そのため呉起を失脚するために姦計を画策しました。
それは、武候に呉起に公女を妻とさせるよう公叔が進言するというものです。
公女と結婚させれば魏に居続けることになります。
忠誠心を見るためにはこれが一番だというのです。
そして、公叔は家に呉起を呼び、公女である妻に呉起のいる前で公叔を徹底的に罵倒させました。
それを見た呉起は公女を妻にする気持ちをなくしました。
魏王から受けた話を辞退しました。
このため、武候の呉起不信が高まり、それに不安を感じた呉起は家臣に、
「このままではいつか魏は滅ぶ、哀れだ」
と涙して言い、魏を後にしました。
彼は南方の英雄である楚の国にいきました。
楚王である悼王も人材を集めていて、登用から1年後には呉起を宰相として重用しました。
法家の商鞅(しょうおう)よりも早く法治国家政策を導入したのでした。
悼王も法治国家作りを後押ししてくれました。
厳しい法をつくり、都会の特権階級を地方振興のため、各地方に分散させました。
楚の国は秦に匹敵するほどの広大な土地を持っているため、地方を開発する必要があったためです。
貴族達は呉起を恨みましたが、表面上は従い、地方に散っていきました。
その後、呉起の行政改革が上手くいき、楚の国力は充実し、軍事行動を繰り出しました。
南方の百越(ベトナム)、北方の陳、蔡、韓、魏、趙を倒し、秦にまで侵入するほどにもなりました。
しかし悼王は前381年に亡くなりました。
このとき、各地に散っていた貴族達は葬儀のために首都に駆けつけさらに、長年の恨みを晴らさんと反乱を起こしました。
呉起は人望が厚い将軍でもありましたので、すこし耐えられれば呉起を慕う兵達が駆けつけることは目に見えていました。
が、呉起を追う反乱軍は凄まじく、すぐさま呉起を追い詰めました。
呉起は悼王の遺体が安置されている霊堂に逃げ込みましたが、追っ手はそこで多数の弓を射りました。
呉起は殺されました。
タッチの差で呉起を慕う兵達が来て反乱軍を鎮圧しましたが、時既に遅しでした。
その後、呉起の法は廃止され、楚はもとに戻ってしまいました。
あとで気付いたんですが、ウィキペディアの呉起とほぼ同じ内容ですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B5%B7
別にコピペしたわけじゃないすよww
最後の評価は僕も同じことを思っていました。
秦が中国を統一したのは、商鞅が法を作り、その法によって商鞅が処刑された後も存続して国の基本になったため、
秦が発展していったのだという説が有力だからです。
しかし、最後に主人公が死んでしまう話は逆にモチベーション上がりませんね。